自然と相対化
国分寺駅と西国分寺駅の間、東西に通う国分寺崖線沿いに広がる低地に国分寺の史跡がある。崖線の縁には湧水地帯を含む林があり、南には田園を有する緑地帯が広がっている。日頃決まった道しか通らない私は初めて崖線の南側を訪れたのだが、崖線の北側とは全く違う広大で緻密な自然に圧倒された。つまり、その光景は何か張りつめていたのである。張りつめると言っても、自壊の危うさを持っていると言う意味ではなく、むしろ「底無しの充足」といったニュアンスである。考えてみれば、私たちは自然に対して何かしらの不足を感じる事はまずない。そこにある自然をただ感受性のままに受け取る人が大半だろう。一方で、不足・不満を抱き続けているのが我々の日常であり、日常を構成する人工的な空間と相まって精神と空間が合一した「世界」に生きているという事が出来る。その「世界」には決して充足が訪れることは無く、そこにいれば常に何かに追われ何かに不満を持ち続けなければならない。とはいえ、人生の99.9%をその「世界」で生きてきた私たちは最早大気圧と同じようにその「世界」を認知することは皆無に近い。この事実を踏まえれば、上記の感覚にも説明が付く。つまり、私は非充足たる日常「世界」とは全く別の充足と調和に基づく「世界」に接触し、その余りの充足ぶりを無意識に相対化し、圧倒されたことで「張りつめた」と形容したのである。その充足は緑地帯の周りの人工物を包み込むようであり、私の精神にあった非充足を一時的にしろ完全に征服した。ついでに私の日常「世界」を相対化する切っ掛けを作ってくれたのは思わぬ僥倖であった。
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