座禅のとらえ方。
私たちは座禅とどう向き合うべきなのでしょうか。よく型を組んで心を空っぽにするというイメージが典型例として語られますが、私自身も数か月前までそのイメージに捕らわれていましたし、今も完全に脱却しているとは言い難いのです。
しかしそのままでいると、毎回ただ何となく思考が渦巻く中で精神統一できない事に焦りつつ座禅することになり、無為に時を過ごしている事になってしまいます。更に言えば現代において隆盛を誇っている個人主義的なスピリチュアリズムが概して主張するような、「考えるな、感じろ」といった投げやりな標語を妄信していい訳がありません。そこで私は鎌倉の座禅会の中で内田和尚に座禅における心の有り方をお聞きし、個人的に満足のいく答えを得ることができました。
両者を比べれば後者の場合がより良いことは明白に思えますが、ここに一つ問題があります。内田和尚や友人が言っていたことですが、座禅に到達点を設定してそれを目指そうとすること自体が不毛なのです。実際に内田和尚が示してくださった、心を平静にしつつ感情や感覚などの自身の内面を客観的に見るという有り方は直接的に到達できるものではありませんし、普通は感覚や感情に意識を持っていかれるものです。故に座禅は理詰めで取り組むものではないし、かといって適当に座っていれば良い訳ではないという非常にややこしい行為と言えるのです。
そうであるならば、やはりここは論理を大まかな枠として捉え、それを実現できそうな方法を地道な実践によって把握していくしかないのでしょう。悪く言えば曖昧極まりない姿勢ですが、他のあらゆる概念においても重要な中庸の姿勢と言うこともできるでしょう。そもそも自己の修練などといった内面の陶冶を含める宗教においては、内面自体が曖昧な有り様である以上中庸の姿勢の方がより適しているのではないでしょうか。
社会学部2年 名倉
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