自然と人工について。
座禅部の道場は西キャンパス南西の端点に位置しています。隣には鬱蒼とした林があり、反対側には建物を半ば侵食するように植物が茂っています。このように自然に囲まれているせいもあってか春に入団したばかりの新参者でも自然の様々な様相を感じることができるのです。鶯は春の鳥だと思っていましたが実は7月でも鳴くようで、林から伸び伸びとした穏やかな鳴き声が聞こえてきます。ですがそれは日差しが照っている時だけで少し曇ると途端に泣き止んでしまうのです。多くの生物は太陽や月の動きに合わせたライフサイクルを持っているといいますからあながち無関係とはいえないかもしれません。道場周辺の原っぱは入団した頃からは見違えるほどに草が生い茂っています。何回か業者の方が刈り入れをしているようですが、完全に放置すれば道場を侵食し始めていたでしょう。ですが実のところ侵食は別方面から既に始まっていたのです。5月に道場を訪れると畳の部屋には埃などの有機物が堆積し、アリや尺取虫が闊歩していました。すぐさま掃除しましたが、考えてみれば人間を含む人工(文明)と自然の間には多くの場合境界線が存在します、むしろ人間が境界を設けていると言ってもよいでしょう。友人が言っていたことですが、人間がいる建物は自然によって侵食を受けません。つまり人間は自然を人工から排除し、自然も人間がいる人工には侵食しないということです。鎌倉の円覚寺は確かに自然の中にあり、洪鐘がある弁天堂からは鎌倉の山々を一望できますが、寺はあくまで自然に囲まれた人工として存在し、雲水の方々が修行されている以上、打ち捨てられた廃墟のように自然に飲み込まれることは決してありません。とすると、完全な人工の空間で生きる私のような一大学生は人工の中でしか座禅をしたことがないと言えます。座禅歴が余りに短い私にとって座禅中に意識せず無心になることは不可能であり、必ず何かしらの思考や感覚が沸き起こるのですが、その発生過程は経験的に周辺の環境から強く影響を受けるように感じます。もし身一つで自然に囲まれた状態で座禅を行った場合、私の中でどのような思考・感覚が発生するのでしょうか、或いはもっと容易に無心になることができるのでしょうか。
社会学部2年 名倉
0コメント